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学校の利用価値を考える


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これまでさんざん学校の問題点を指摘してきましたが、今回はそれでも学校の利用価値は断然高いですよ、という話をします。ぼくの考える学校の利用価値は以下のとおりです。
  • 圧倒的にリソースが豊富である
  • 動物的なスキルを学ぶことができる
  • 社会性を身につけることができる
  • 社会で生きぬくためのチュートリアル/リハーサルができる

圧倒的にリソースが豊富な学校

学校の利用価値が高いと考える最初の理由は、学校には大量のヒト・モノ・カネが投入されていて圧倒的にリソースが豊富であることです。国がみとめる資格をもった教師が毎日数時間も勉強を教えてくれたり、設備や教材を無料で提供してくれるような場所は他には見当たりません。学校を利用しないことは大きな損失であり、子どもにとって非常に不利な選択であることは間違いありません。

とはいえ、学校にはまだまだシステム上の問題点が多いとはいえ、昔よりはかなり改善されていることも確かです。仕事上、学校へ出向いたり学校の先生方と情報交換することがありますが、みなさん子どもに対する心配りが細やかで、教師の質はかなり向上しているようだし、教材もかなり工夫されて読みやすくなっているし、設備も進歩しています。今後もきっと、少しずつ改善されていくのではないかと期待しています。

そしてなによりも、圧倒的な人数の子どもたちが過ごす場所であることが重要です。子どもがたくさん集まっていること自体が(さまざまな問題の原因であると同時に)とても貴重な環境であるからです。以下、その理由について説明します。


動物的なスキルを学んで社会化される場所

というのも、そもそも学校は勉強を教わるだけの場所ではありません。勉強を教わるだけなら塾の先生の方が優秀だし断然効率がよいでしょう。

どちらかというと、学校は学問よりも動物的なスキルを学ぶ場所として重要です。とりあえず子どもの数が多いので子ども同士で、好きになったり・嫌いになったり、仲良くなったり・協力したり、ケンカしたり・仲直りしたり、いじめたり・いじめられたり、恋愛したり・フラれたり、などなど、さまざまな経験を積むことができます。

オトナが相手だとそのような経験を積むことはできません。どうしてもオトナは子どもに対して手加減をするし、基本的には子どもを保護してしまうものだからです。

一方、子ども同士の交流はガチンコのぶつかり合いです。もちろんトラブルも頻発しますが、それを自分たちだけで知恵をしぼって乗り越えるプロセスこそが貴重な経験となります。そんな経験を通じて、お互いの妥協点を見つけて利害を調整することを学び、社会性が培われていきます。

アメリカの心理学者ジュディス・リッチ・ハリスは、子どもはオトナに導かれるのではなくて、子ども同士の集団でもまれながら社会化されていく「集団社会化説」を提唱しています。


児童精神科の領域でも「子どもに対してオトナがどのように接するべきか」が盛んに論じられているばかりで、よく見落とされがちな視点です。もちろんそれも大切かもしれませんが、最も重要なのは「子ども同士の交流が生まれる環境というか生態系をオトナがいかに設定できるか」なわけです。

子どもは子ども同士の交流を通じて成長しているのにも関わらず、児童支援の専門家であるオトナが子どもを導いてあげたおかげで成長したんだ、治療やら療育のおかげなのだ、と錯覚しているひとってめちゃくちゃ多いんですよね。

最後にもう一点。


チュートリアル/リハーサルとしての学校

成人して社会に出てからが「本番」だとすると、学校は基本的なマニュアルやルールを学ぶ「チュートリアル」あるいは「リハーサル」の期間です。ちなみに人間のチュートリアルはやたらと長いんですよね。

本番が始まる前に、理不尽だったり悲しかったり辛かったりする経験も含めて、ひと通りさまざまな経験をしておいた方が有利です。社会に出てからひどい目にあっても立ち直りが早くなるからです。一般的に、中高年になってはじめて挫折するひとが立ち直るのはけっこう難しいのですが、子どもは成長していくぶん挫折からの立ち直りが圧倒的に早かったりします。

ちょうど、病原菌に対するワクチンのようなもので、悪いものの一部を体内に取り込んで抵抗力をつける必要があります。

もちろん、ひどい目にあった子どもには手当てが必要であることは言うまでもありませんし、そのためのシステムを学校は準備しているので積極的に活用すべきです。危機的な状態からリカバリーするまでのプロセスを注意深くサポートするのは当然ですが、ひどい目にあうリスクをゼロにするために貴重なチャンスを根こそぎ奪わないようにした方がよいでしょう。

学校なんて必要ないし、別の手段がある、と考える前に、ちょっと立ち止まって学校の利用価値を検討してみるのもよいかもしれない、と思う今日このごろです。

学校という不可能な場所


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前回は学校の「聖性」とか「実利性」など存在価値が低下している、という話をしました。今回は、学校の「不可能性」についてまとめました。


学校という不可能な場所

統計的にみると、日本は諸外国にくらべてあまり学校にコストをかけていないようにみえます。新興国なみにひとクラスあたりの生徒数が多くて過密になっていて驚きます。

日本の学校は生徒数が多すぎる1

日本の学校は生徒数がやたらと多い

Twitter @tmaita77 舞田敏彦


そもそも、ひとりの担任教師が大人数のクラスで生徒ひとりひとりを把握して指導することなんて無理があります。できる、と思い込んでいるのが大きな勘違いのような。

学校が聖なる場所でも、役に立つ場所でもなくなった今、「聖性」や「実利性」の次は「不可能性」なんじゃないかなと。あるいは、もともと不可能だったことが明らかになってきたように思えます。

フィクションの世界では不可能が可能になっていたりします。たとえば、暗殺教室という漫画では、「殺せんせー」というナゾの生命体が無尽蔵な知識とマッハ20の超高速で移動できる運動能力を駆使してクラスの生徒全員にパーフェクトな教育を施していきます。








また、TVドラマ「女王の教室」では、パーフェクトな教師になろうとしてボロボロになりながら苦闘した結果、ダークサイドへ堕ちていく教師が描かれています。








さらに近年では、発達障害をもつ子どもに対して合理的配慮が求められるようになっているので、普通クラスの担任教師は多数の生徒をまとめつつ、少数の生徒に対する配慮を同時に求められるようになっているので、ますます負荷が増えています。うまいこと特別支援コーディネーターやスクールカウンセラーと連携できればいいのでしょうが、現実にはなかなか難しいようで担任教師が丸抱えしていて苦労されているケースがみられます。


学校は不登校を前提に成立している

子どもは自分と似たような特徴のある子どもと仲良くなって自然に集団をつくります。社会的動物である以上、そのような習性があります。そうすると、仲間と敵を区別する境界が必要になるので、「オレたちは同じだよね」「ヤツらとは違うよね」という確認行動を繰り返すようになります。

その際に、少数派の異端者/敵が存在することによって多数派の団結が強まることがあります。学校はしばしば、多数派の子どもにとっては居心地の良い場所だけど、少数派の子どもにとっては嫌な場所になってしまいます。

残念ながら、ヒトには他グループのメンバーに対して「心の理論」を鈍らせて、非人間化してしまう特性が備わっていることを社会心理学が明らかにしています。

しかも、子どもたちの世界には、教師やスクールカウンセラーはもちろんのこと、親でさえ介入することはしばしば困難となります。

子どもをもったことのあるひとはみんなご存知だと思われますが、子どもはびっくりするくらい親の言うことをききません。これは、基本的に子どもはオトナよりも同世代の魅力的な子どもに惹かれて従う習性があるからです。

いくらオトナが子どものことを理解している風を装って若づくりしてみたり、したり顔でスリ寄ってみても逆に気味悪がられるだけです。子どもから見るとダサいおっさん・おばはんなわけで、同世代のイケてる子どもたちの影響力には到底かないません。

というわけで、いったん子ども集団/学級における自分のポジションが悪化してしまうと、つらい状況がいつまでも継続してしまうことになりがちです。

しかも、家に帰ってネットにつながれば、いくらでも心地よい居場所が提供されていたりするので、ますます学校へ行く必要がなくなってしまいます。

したがって、数%の生徒が不登校を選択するのは今や当然の帰結であると考えられます。これは、不登校になってしまう子ども個人の問題というよりも、学校というシステムのエラーなわけです。

というわけで、さんざん学校の問題点を指摘してきましたが、次回は学校の利用価値はまだまだ高いですよ、という話をしようと思います。


あらためて学校の存在価値を考えてみる


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某不登校youtuberが「中学校に行かない宣言」をして話題になっているので、不登校のお子さんをサポートする立場から、あらためて学校について考えをまとめてみました。

よく指摘されているように、学校というシステムにはさまざまな矛盾や欠陥があるのは事実です。ぼく自身もド田舎の公立中学校でめちゃくちゃ体罰を受けていて、殴られて鼻血が出るのは日常茶飯事で、鼓膜が破れたこともあったりして苦い思い出があります。なぜ自分よりアタマの悪い教師に勉強を教わらないといけないのだろうかと疑問を感じていたので、教師たちのほとんどをバカにしていて態度が悪かったので殴られても仕方がないし、殴られ慣れたおかげで度胸がついたから個人的には良い面もあったのかなと思ったりもしますが、それはともかく。

だからといって学校へ行かなくてもフリースクールやホームスクーリングでええやん、という話は極端すぎます。まるで、「蜂の巣を破壊したら蜂は自由になるからハッピーやん!」みたいなアタマの悪さを感じてしまいます。

というわけで、学校の歴史をひもときながら、学校というシステムの功罪について考えてみました。


学校 ≒ 軍隊説!?

某不登校youtuberによると、学校に行く価値がないのは「学校にいる子どもたちがロボットみたい」だからだということでした。まるで軍隊のような一律の教育がなされているという、学校への批判としてよくあるパターンです。

そもそも、国民を兵士にして軍隊をつくるためには義務教育が必須です。字を読めなかったり、集団行動ができなかったり、命令に従わない兵士に武器を渡すことなんて到底できません。それこそ、ロボットのようにちゃんと命令どおり動いてくれないと困ります。

なので、学校システムは軍隊をつくるためには必要不可欠だったわけだし、軍隊のシステムを模倣してつくられていていたのは常識でしょう。

ただしWW2以降、諸外国は次々と方針転換をしているようですが、なぜか日本は戦後もなお軍隊っぽい教育の痕跡が色濃く残っているようです。たしかに、小学生のときに炎天下のなか半日かけてひたすら行進の練習をさせられたことは不条理としかいいようがありませんが、兵士としては必要だったんだなと納得することができます。

というわけで、“日本の学校は今も「徴兵訓練」をやっている” という過激なコラムがあります。


それによると、
  • 学年は中隊、クラスは小隊、班は分隊、遠足は行軍演習?
  • 号令・朝礼・掃除・給仕・行進など、集団行動の徹底?
  • 校舎は兵舎?ランドセルは西洋式軍用背嚢から派生?

ランドセルは軍隊の装備かも説
とまあ、少々突飛で妄想的なのでは?という内容ではありますが、実感としては一理あるかも、と感じてしまいます。

「神聖な場所」としての学校

最近はそうでもないみたいですが、学校の教科書や通知表・卒業文集や卒業アルバムをなんとなく捨てられないひとが多いようです。これは墓石を蹴り倒すことができないのと同じように、ただの紙切れとか石ではなく宗教的な意味あいのある聖なるモノだからです。

その昔、学校は「聖なる場所」でした。教師はまるで聖職者のように畏敬の念を抱かれる存在であり、不登校なんてとんでもない背信行為であるとされていたわけです。
聖職者
たとえば、聖職者と同様に教師は性犯罪を起こす確率が一般人口よりも高いことが知られています。これは、子どもと濃密に接することが多いサービス業である以上、ある程度は仕方のないことではあるのですが、建前上聖職者たちは決して間違ったことをするハズがないし、あってはならないことになっています。

その他、体罰・いじめ・自殺・不正・事故などなど学校にまつわる不都合な真実はたくさんあるものの、聖なる場所だからオールオッケーということになっていました。現在はあばかれて可視化されるようになっていますが、聖性には矛盾をおおいかくす力があったわけです。


学校の黄金時代/学校の実利性

1947年の学校教育法公布によって中学校が義務化され、もう戦争は終わってしまったのに軍隊っぽい教育が徹底されていました。やがて高度経済成長期をむかえ、そのような教育を受けた若者たちが農村から都市部へ大量に流入していきます。

軍隊っぽい教育を受けた子どもたちは兵士になることはなかったものの、大量の工場労働者になっていくわけです。
労働者
そして、学校教育によって鍛えられた知識・勤勉さ・従順さ・協調性などは、立派な工場労働者になるためにはとても重要なスキルとして役に立ったことでしょう。何も持たざる若者にとっては唯一の武器となったのかもしれません。

しかも、当時の労働市場は新卒一括採用・年功序列・終身雇用というルールなので、実質的な能力以上に従順さや協調性によってリターンを最大化させることできたわけです。

つまり、学校の聖性は実利性へとスライドしていきました。ちょっと時代遅れの軍隊っぽい教育が高度経済成長期を支えてくれたのでラッキーだった、といっても過言ではないかもしれません。

実際に、1970sは日本史上不登校が最も少なかった時代で、まさに学校は黄金時代をむかえていたわけです。

もちろん、ぼくも経験したように、この当時の学校では体罰はあたりまえで、いじめや事故も今よりずっと多かったことでしょう。ブラック企業もあたりまえだったわけですが、とにかく儲かっていたのでオールオッケーだったわけです。豊かさにはさまざまな矛盾をおおいかくす力があるからです。


学校の実利性とその衰退

ところが、やがて高度経済成長は終焉をむかえ、高度消費社会・情報化社会への変化がはじまります。サービス産業が台頭し、いかに顧客のニーズをキャッチして臨機応変かつ柔軟に立ち回るか、が重視されるようになります。このへんのスキルは学校では教えてくれないので、社会から要求されるスキルと学校で学ぶスキルとの乖離が大きくなっていきます。

学校の聖性だけでなく、学校の実利性がともに衰退していくにつれ、隠蔽されていた矛盾が次々とあばかれるようになりました。そして、「学校に行く意味あるの?」と考えるひとの割合が増えていきます。実際に、1980sから不登校が急増していくわけです。
燃え尽きた社畜
そして、1990sバブル崩壊以降、社会のルールは決定的に変わっていきます。従順さと協調性でひたすら会社に尽くしていてもリターンが得られずに報われなくなったので、「ブラック企業」が流行語になったり、かつて会社に奉公していた企業戦士たちは「社畜」と呼ばれてバカにされるようになったり、「うつ病」が労災認定されて損害賠償請求されるようになりました。
聖性も実利性ともに失ってしまった学校にはもはや存在価値がないということで、いじめや体罰など悪の温床である学校を解体せよ!という過激な学校解体論までが出てくる始末です。

学校解体論を唱えるひとたちを観察してみると、純粋でナイーブな研究者が多いようで、極端な理想論にしがみついているようにみえるし、実務経験の不足も相まって、あまり現実がみえていないように感じてしまいます。学校さえなくなれば、さまざまな矛盾や暴力が解決すると本気で考えているのでしょうか?

ともかく、そのような理想論は某youtuberが支持される土壌になってしまうし、そこで発せられる極端なメッセージは多くのひとには有害となり得ることを自覚した方がよいでしょう。

というわけで次回は、学校の「聖性」とか「実利性」など存在価値が下がったらどうのるのか、考えてみようと思います。


心理社会的サポートのやっかいな問題


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前回は心理社会的資源は見えにくいがゆえにサポートされにくい、という話をしました。


今回は、心理社会的資源が欠乏している「メンタルヘルスが悪化して孤立しているひと」はかわいそうだからサポートしてあげなくっちゃ!ってことなんですが、ここには大きな落とし穴がポッカリあいている、という話をまとめていきます。

心理社会的サポートは無力感を高める

「排斥と受容の行動科学」という書籍に興味深い実験が紹介されています。

排斥と受容の行動科学―社会と心が作り出す孤立 (セレクション社会心理学 25)




ニューヨークの大学生を対象として、人前でスピーチをするためのアドバイスを受けた後の心理状態がどう変化したかを調べる実験です。

サポートは無力感を高める

「〇〇したらいいよ」と、あからさまでわかりやすいストレートなサポートを受けたひとは無力感にさいなまれて大きな心理的苦痛を感じていました。なんとサポートが無いひとよりも心理状態が悪化したのです。

一方、「あなたは問題ないけど、〇〇するというやり方が良いみたいだよ」という、すこしわかりにくい間接的なサポートを受けたひとはあまり無力感にさいなまれることはありませんでしたが、サポートを受けないひとと大差のない心理状態のままでした。

いわゆる「わかりやすい・あからさまなサポート」はマウンティングみたいなもので、サポートを受ける側の無力感を高めてしまうようです。

そして、サポートを受ける前よりも心理状態が改善したのは、「あなたには問題はないけど、わたしには〇〇するというやり方が必要かもしれません」という遠回しでまわりくどくてめちゃくちゃ間接的なサポートを受けたときでした。自分を下げて相手を上げる、みたいな手法ですね。

ところが問題は、この手法をとることでサポートを受けたひとの心理状態は改善したものの、逆にサポートする側のひとが無力感にさいなまれて心理状態が悪化してしまったのです。


自尊心のトレードオフ

本当に誠実な対人援助職のひとはパッとしない影のある不幸そうなひとが多いという話をしましたが、それが実証されているみたいです。


実際、精神科クリニックには対人援助職のひとがたくさん受診されています。なにかしら心にスキマを抱えているひとが多いのかもしれません。

ひねくれた見方ですが、本来はとても過酷な仕事であるにもかかわらず心理カウンセラーなどの対人援助職がしばしば人気になりがちなのは、サポートが必要なひとにマウンティングすることで手っ取り早く自尊心を高めたいという欲求があるからかもしれません。

これは、SNSで尊敬を集めるキラキラしたひとの姿を目にすることで自分の自尊心が低下してメンタルヘルスが悪化してしまうことや、世間から非難されて尊敬を失ったひとを寄ってたかって攻撃して炎上させることで自分の自尊心を少しでも回復させようとする行為に通じるかもしれません。「ひとの不幸は蜜の味」ということでしょうか。

そうすると、自尊心にはトレードオフがあって、自尊心の総量というパイはあらかじめ決まっていて、それをどのように配分していくかの問題のように見えてきます。


支援者を支援すること

実際に、患者さんを直接サポートするよりも、患者さんの支援者をサポートすることで、結果的に患者さんが回復することは臨床現場ではめずらしくありません。

わかりやすい例でいうと、子どものメンタルヘルスの問題が起こったときに、まず最前線でがんばっている母親に負担が集中して疲弊していきます。そうすると、余裕のなくなった母親が感情的になって子どもに対して押しつけがましいサポートを繰り返すようになるので、ますます状況が悪化してしまう悪循環が生じてしまいます。

こんなとき、父親が母親と一緒になって子どもに対して感情的になってしまうと、もう目も当てられない悲惨な状況になりがちです。

なので、父親は子どもから一歩距離をとって、母親をサポートする側にまわってバックアップに徹することで、母親に心理的余裕が生じて状況が好転することが多かったりします。父親は思春期の子どもにはたいして役に立たないと思われがちですが、意外と鍵を握っている存在のようです。

というわけで、情熱的に手厚くサポートされているのになぜか状況が全然改善しないケースは、サポートをする側のひとをサポートするところから始めてみる必要があると思う今日この頃です。

心理社会的資源を「見える化」する


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前回は、お金の欠乏が知能やメンタルヘルスにおよぼす影響についてとりあげました。今回は、お金だけでなく人間関係の欠乏についてまとめていきます。人間関係の欠乏、つまり孤独についてです。


心理社会的資源を「見える化」する

以前、ひきこもりに関する記事で「孤独による健康被害」を説明しました。


孤独な状況が長期化すると、心身ともに悪影響をおよぼすことが知られていますが、孤独でも全然平気なひともいたりするので、これは個人差が大きいことも知られています。なので、もっと総合的に考える必要がありそうです。

排斥と受容の行動科学―社会と心が作り出す孤立 (セレクション社会心理学 25)




社会心理学では、個人的な資質と人間関係や他者からのサポートなどを総合して「心理社会的資源」と呼んで、量的に把握しようとする試みがなされています。

お金の欠乏は一目瞭然なので手当てしなければならないことがわかりやすいのですが、個人の資質や人間関係は目に見えないものなので測定できません。なので主観的で経験的な精神論や根性論がまかり通ったりして軽んじられやすかったりします。

心理社会的資源もお金つまり金融資産と同じように有限かつ計測可能な資源であり、量的に把握していくという視点は精神科的サポートを行う上で極めて重要です。


幸福の条件とは?

そこで参考になるのは、以下の書籍です。著者の橘玲氏は、幸福の条件として3つの資本/資産を想定し、それを「幸福のインフラ」と呼んでいます。

幸福の「資本」論――あなたの未来を決める「3つの資本」と「8つの人生パターン」
橘 玲
2017-06-16


  1. 金融資本 お金や不動産 満たされれば自由になれる
  2. 人的資本 健康や才能  満たされれば自己実現できる
  3. 社会資本 人脈や評判  満たされれば居場所や絆を得られる
つまり、心理社会的資源=人的資本+社会資本です。

幸福は主観的なものなのでなかなか定義づけしにくいものではありますが、この3つがまるでインフラのように幸福を基礎づけていることに関してはわりと普遍性があると思われます。

たとえば、アダム・スミスは幸福の条件を以下のように定義していますが、それぞれ上記の3条件に対応しています。
健康で、負債がなく、良心にやましいところのない人

道徳感情論 (講談社学術文庫)
アダム・スミス
講談社
2013-07-26


つまり、負債がない/健康/やましいところのないは、それぞれ金融資本/人的資本/社会資本を所有していることを示しています。

また精神病理学的には、重症うつ病のひとが「自分は不幸になってしまった」という妄想を抱くことが知られていますが、そのうちの代表的な3つの妄想がそれぞれ幸福の条件を喪失している状態に対応しています。
  1. 貧困妄想 お金がなくなってしまった
  2. 心気妄想 治らない病気にかかってしまった
  3. 罪業妄想 罪を犯したから社会から排斥される

「幸福の条件」を「幸福のインフラ」として「見える化」する

幸福のインフラのうち、金融資本<人的資本<社会資本の順で「見える化」しにくくなっています。金融資本には値札がついていますが、社会資本はプライスレスであると考えられがちだからです。しかも、社会資本は主観的な幸福感に直結しているため特別視されます。

投資家でもある橘玲氏は、特別視されがちな社会資本を相対化し、金融資本や人的資本と同列にならべて論じることで「見える化」していきます。

幸福のインフラである3つの資本を運用して富/幸福を得て、さらにそれを資本に加えて運用を繰り返すことで、幸福のインフラをより大きく育てていくことが人生設計につながると論じています。
幸福のインフラ投資と運用
  1. 投資家は金融資本を金融市場に投資して、リターンという「富」を獲得します。
  2. 自らの能力を活かして労働市場に投資して、給与や報酬という「富」を獲得します。
  3. 人間関係を活かして仲間を形成して、愛情や友情や評判という「富」を獲得します。

そして、幸福の3つのインフラのうち、いくつを所有しているかで人生のパターンが示されると図式化します。
幸福の資本論8分類
  • すべて満たされていたら超絶幸せ
  • 2つ満たされていたらめちゃくちゃ幸せ
  • ひとつだけ満たされていてもなんとか幸せ
  • すべてが満たされていない状態は支援が必要

お金さえ渡せばすべてうまくいくのか?

たとえば生活保護受給者は金融資本は最低限保障されているので安泰だろうとか、ベーシック・インカムを導入すれば全てうまくいくのでは?という議論があります。

たしかに、最低限の生活や医療は保障されているでしょうが、精神疾患を抱えて生活保護を受給しているひとの中には、人的資本を活かせてないことや、社会資本が乏しいこと、つまり心理社会的資源の欠乏について、深く悩んでいて幸福度が高まらないことが多々あります。心理社会的資源の欠乏につけこまれて、生活保護費をまるっと巻き上げられていることもめずらしくありません。

前回、「うつ病のひとにお金を渡したら改善した」という研究を紹介しましたが、お金だけではなく心理社会的なサポートを同時に行っているがゆえに改善がもたらされたと考えるべきでしょう。

つまり、幸福の3つのインフラをバランスよくサポートする必要がある、という月並みな話になるわけで、やっぱり心理社会的資源のサポートも大切だよね、という話なのですが、そこには非常にやっかいな問題がつきまとう、という話を次回まとめていきます。


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