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心理社会的サポートのやっかいな問題


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前回は心理社会的資源は見えにくいがゆえにサポートされにくい、という話をしました。


今回は、心理社会的資源が欠乏している「メンタルヘルスが悪化して孤立しているひと」はかわいそうだからサポートしてあげなくっちゃ!ってことなんですが、ここには大きな落とし穴がポッカリあいている、という話をまとめていきます。

心理社会的サポートは無力感を高める

「排斥と受容の行動科学」という書籍に興味深い実験が紹介されています。

排斥と受容の行動科学―社会と心が作り出す孤立 (セレクション社会心理学 25)




ニューヨークの大学生を対象として、人前でスピーチをするためのアドバイスを受けた後の心理状態がどう変化したかを調べる実験です。

サポートは無力感を高める

「〇〇したらいいよ」と、あからさまでわかりやすいストレートなサポートを受けたひとは無力感にさいなまれて大きな心理的苦痛を感じていました。なんとサポートが無いひとよりも心理状態が悪化したのです。

一方、「あなたは問題ないけど、〇〇するというやり方が良いみたいだよ」という、すこしわかりにくい間接的なサポートを受けたひとはあまり無力感にさいなまれることはありませんでしたが、サポートを受けないひとと大差のない心理状態のままでした。

いわゆる「わかりやすい・あからさまなサポート」はマウンティングみたいなもので、サポートを受ける側の無力感を高めてしまうようです。

そして、サポートを受ける前よりも心理状態が改善したのは、「あなたには問題はないけど、わたしには〇〇するというやり方が必要かもしれません」という遠回しでまわりくどくてめちゃくちゃ間接的なサポートを受けたときでした。自分を下げて相手を上げる、みたいな手法ですね。

ところが問題は、この手法をとることでサポートを受けたひとの心理状態は改善したものの、逆にサポートする側のひとが無力感にさいなまれて心理状態が悪化してしまったのです。


自尊心のトレードオフ

本当に誠実な対人援助職のひとはパッとしない影のある不幸そうなひとが多いという話をしましたが、それが実証されているみたいです。


実際、精神科クリニックには対人援助職のひとがたくさん受診されています。なにかしら心にスキマを抱えているひとが多いのかもしれません。

ひねくれた見方ですが、本来はとても過酷な仕事であるにもかかわらず心理カウンセラーなどの対人援助職がしばしば人気になりがちなのは、サポートが必要なひとにマウンティングすることで手っ取り早く自尊心を高めたいという欲求があるからかもしれません。

これは、SNSで尊敬を集めるキラキラしたひとの姿を目にすることで自分の自尊心が低下してメンタルヘルスが悪化してしまうことや、世間から非難されて尊敬を失ったひとを寄ってたかって攻撃して炎上させることで自分の自尊心を少しでも回復させようとする行為に通じるかもしれません。「ひとの不幸は蜜の味」ということでしょうか。

そうすると、自尊心にはトレードオフがあって、自尊心の総量というパイはあらかじめ決まっていて、それをどのように配分していくかの問題のように見えてきます。


支援者を支援すること

実際に、患者さんを直接サポートするよりも、患者さんの支援者をサポートすることで、結果的に患者さんが回復することは臨床現場ではめずらしくありません。

わかりやすい例でいうと、子どものメンタルヘルスの問題が起こったときに、まず最前線でがんばっている母親に負担が集中して疲弊していきます。そうすると、余裕のなくなった母親が感情的になって子どもに対して押しつけがましいサポートを繰り返すようになるので、ますます状況が悪化してしまう悪循環が生じてしまいます。

こんなとき、父親が母親と一緒になって子どもに対して感情的になってしまうと、もう目も当てられない悲惨な状況になりがちです。

なので、父親は子どもから一歩距離をとって、母親をサポートする側にまわってバックアップに徹することで、母親に心理的余裕が生じて状況が好転することが多かったりします。父親は思春期の子どもにはたいして役に立たないと思われがちですが、意外と鍵を握っている存在のようです。

というわけで、情熱的に手厚くサポートされているのになぜか状況が全然改善しないケースは、サポートをする側のひとをサポートするところから始めてみる必要があると思う今日この頃です。

「そのまんまでいいんだよ」という甘い言葉


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前回は、精神科のクスリ/向精神薬を飲みたくないひとのなかには、宗教的で保守的な世界観をもつひとがいるという話をしました。

そんなひとたちは、向精神薬によって自分を変えていくのではなく、心理療法やカウンセリングによって「ありのままの自分」を肯定していく、という治療の方に興味を示すかもしれません。

でも、「そのまんまでいいんだよ」という甘い言葉は非常にやっかいだと思うわけです。たとえば、斎藤環のツイート。
斎藤環の無条件全肯定
患者さん、あるいは支援対象のひとを無条件に全肯定するべきであるという意見です。SNSでは異常に人気がありますが、これを単純に受け入れていいものでしょうか?


心理療法はカルトっぽい?

心理療法の大御所カール・ロジャーズは効果的な心理療法を始めるための基本として「傾聴・受容・共感」の重要性を説き、「来談者中心療法」を提唱しました。これは現在にいたるまでカウンセリング技法の基礎となっています。

受容とはすなわち「無条件の全肯定」とされています。ともかく、悩みを抱えて相談に来たひとがどんな状態であろうと、セラピストたるものアレコレ評価することなく「そのまんまでいいんだよ」と尊重して好意をもちなさい、と。

そして、そのようなセラピストの受容に支えられながら、「ありのままの自分」が表現されることによって、深層心理を理解し、自分の可能性に目覚め、自己実現できるようになっていくのです、めでたしめでたし、みたいな教えです。

どこかのカルト集団が信者を勧誘するときに使いそうな手口なので、うさんくさいなあと常々感じていたので全く興味がありませんでした。

オザケンこと小沢健二の母上である心理学者の小沢牧子氏もロジャーズ派を批判する本を書いていて、ちょっと右翼っぽくて微妙なところもありますが、なかなかおもしろい本です。




それはともかく、いい歳していつまでも食わず嫌いはダメだろうということで、カール・ロジャーズについて調べてみました。参考:山田俊介「受容及び無条件の肯定的配慮の意味についての考察―カール・ロジャーズのとらえ方の変化をもとにして―」

すると、意外にもけっこうまともなことが書かれていたので紹介していきます。


無条件の肯定的配慮/unconditional positive regard

まず、「無条件の全肯定」ではなく、正しくは「無条件の肯定的配慮/unconditional positive regard」です。

regardは「配慮」と訳されていますが、要は「関心を示す」ということです。なので、「無条件の全肯定」とはかなりニュアンスが違うことがわかります。患者さんの存在をまるごと無条件に全身全霊で肯定する、というゴツい話ではありません。

患者さんに対して、とにもかくにもポジティブであたたかく関心を示すことで、つまり「キミ、なかなかおもしろいね。」という感じです。

ちなみにこの概念、カール・ロジャーズのオリジナルではなくて、スタンダルという大学院生の論文から拝借したようです。

そして、無条件の肯定的配慮についてロジャーズの記述を抜粋すると、、、
  • 『無条件の肯定的配慮』という用語は不幸な言葉である。というのは、それは絶対的な、あるか・ないかという性質の概念であるかのように聞こえるからである。

  • 完全に無条件である肯定的配慮というものが理論的にしか存在し得ないものであることが、その説明からはっきりわかるであろう。

  • 他の人やその感情をほんとうに受容するということは、決して容易に成しとげられるものではない

  • もちろん、このような無条件的配慮をいつも感じ続けることは不可能である。

  • 無条件の肯定的関心も誤解されています。クライエントを大切に思い、クライエントを認めるというのは、クライエントの行為を何でも認めることではありません。

つまり、「無条件の肯定的配慮」とは、、、
  • 理論的にしか存在しない概念であり
  • カンペキに実践するのはまずムリであり
  • 実際には程度の問題で、絶対的なことではない
ということが書かれています。

つまり、ぼくの想像では、、、カール・ロジャーズは、とある大学院生の論文にあった「無条件の肯定的配慮」という言葉を借りてきて、心理療法がうまくいっているときはたいてい「無条件の肯定的配慮」がなされているよね、ってことを言ってみた。

しかし、カール・ロジャーズは絶大な影響力のある大御所だったので、弟子たちがすんばらしいお考えだ!ってことで飛びついてもてはやしたあげく、だんだん意味がとんがってきて、「セラピストたるものクライアントを無条件に全肯定せねばならん!」みたいなドグマになって拡散してしまった。

思わぬ展開に驚いた当のカール・ロジャーズ自身は、「おまえらちょっと落ち着け!」といさめたところで時すでに遅し。拡散してしまったフェイクニュースはあとから訂正してもなかなか修正されないように、そのまんま定着してしまった。つまり覆水盆に返らず、といったところでしょうか。

エラい先生の真意がうまく継承されることなく、お調子者の弟子たちによって好き勝手にねじ曲げられて、言葉だけが独り歩きした結果、エラい先生が若い世代からバカにされてしまう、というもったいない現象って、心理療法とか精神科医療の業界ではよくあることなんですよね。。。


無条件の全肯定 ≒ 無責任なネグレクト

また、カール・ロジャーズは慢性期統合失調症のひとたちとの心理療法の経験から、
きわめて未成熟な、あるいはきわめて退行的な人との接触においては、無条件の肯定的配慮よりも条件づきの配慮の方が、関係を始めるのに、したがってセラピィが軌道にのるために、より効果的なものである
と、「無条件の肯定的配慮」をドグマチックに誰彼かまわず適応するのではなく、対象を選ばなければならないと注意喚起しています。

未成熟なひと、たとえば子どもたちならどうでしょう。子育てをしたことのあるひとならわかると思いますが、我が子がかわいいからといっていつまでも親が「無条件の全肯定」を続けていると、いつか破綻することは目に見えています。

親やカウンセラーは無条件で全肯定してくれたのに、他の人はしてくれない!とゴネるようになって、家庭外でうまくいかなくなるリスクが高くなるからです。

親は子どもに対して責任を負っているからこそ、否定するときは否定しないといけない局面もあるわけで、なんでもかんでも許容することは無責任でありネグレクトという虐待にほかなりません。


カウンセリング・マインドの弊害

カール・ロジャーズが好むと好まざるとにかかわらず、現代において「無条件の肯定的配慮」はいつのまにか「無条件の全肯定」という、とんがったドグマに変質し、「カウンセリング・マインド」として、すべてのセラピストへの要求として突きつけられることになりました。

そのため、精神科に来る患者さんのなかには、すべての援助者が「カウンセリング・マインド」をもって自分のことを「無条件に全肯定」してくれることを期待するひとが(ごくごくまれに)います。

これはいわば、めちゃくちゃハードルが上がっている状態なので、ちょっとでも異を唱えると激怒されたりするわけです。一方で、忠実に「無条件の全肯定」を続けてしまって燃え尽きてしまう支援者のなんと多いことか。

そもそも、患者さんのなかには間違った情報にふりまわされていて、健康を害する活動を続けて人生をすりへらしているひとがいるわけです。自分が正しいと信じていることを否定されることは苦しいことなので「そのまんまでいいんだよ」と言ってあげたくもなりますが、、、

しかし、治療導入のため短期間だけ戦略的に肯定する場合であっても部分的な肯定にとどめる必要があるし、間違った情報を安易に全肯定してしまうことはさすがに無責任だと思うわけです。とくに、医師のお墨付きはとても強力なので、それによって間違った情報が固定されて身動きができなくなっているひともいるわけです。

無条件の全肯定によって顧客を接待しなければならないサービス業もあるとは思いますが、いちおう医師には責任がともなっているので、間違っている情報は間違っていると指摘しておく必要があると思う今日このごろです。

対人援助職のひとが幸せになりにくい理由


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対人援助職

精神保健の支援者向けに講演をすることがあったので、 いろいろ考えたことをまとめてみました。


支援者を支援すること

うちの精神科クリニックには、悩みを抱えた対人援助職のひとが数多く訪れます。ダントツで多いのは保育士さん。ついで介護士さん、教員、看護師、作業療法士、理学療法士、社会福祉士、心理士などなど。同業の精神科医療従事者も多い傾向にあります。

患者さんや支援の対象になるひとたちの権利が保たれるようになっていてとても喜ばしいわけなのですが、それにともなって支援者側に求められる技能のハードルが上がっていることが背景にあるのかもしれません。

なので、「支援者を支援すること」は患者さんを支援することと同じくらいか、もしくはそれ以上に大切だと思う今日このごろです。


対人援助職のミッション

当然のことながら対人援助職のミッションは「困っているひとを支援すること」です。困っているひとが立ち上がって自分のチカラで困難を乗り越えていけるように支援するわけです。

つまり、支援される側のひとが「支援者のおかげで乗り越えることができた」のではなく「自分のチカラで乗り越えることができた」と実感してもらうことができるかどうかが大切だったりします。

とくに、精神科の治療ではコレが重要です。

治療を終結するときに患者さんから「先生のおかげですっかり良くなりました」と感謝されると個人的にはうれしいのですが、精神科医としては治療失敗つまり「感謝されたら負け」というわけで反省しなければなりません。なので、どこがまずかったのか過去のカルテを振り返ることにしています。

「なんか頼りない先生やったけど、まあなんとかなってよかったわ」と言われることをいつも目指しています。


医師に奉仕する患者さん

極端に言うと、患者さんから感謝されるということは、患者さんの手柄をヨコドリしていることも同然だからです。「医師に奉仕する患者さん」になってしまっては元も子もありません。

もしも、お世辞ではなく本気で「医師のおかげ」だと思われているとすれば、それは医療ではなく「別の何か」なので、科学の一端を担う医師としては極力さけるべきです。

ほとんどの精神科治療は、患者さんの資質なりストレングスなり自然治癒力を引き出すことでしか達成されません。薬物療法とか心理療法を活用しますが、あくまでも補助的なものだったりします。

なので、「医師のおかげで」「お薬のおかげで」改善したと思われてはいけないわけです。医師も薬もリソースにすぎませんから。  

百歩ゆずって、とても深く絶望している患者さんに「医師のおかげで、お薬のおかげで、なんとかなる」と一時的に錯覚させることで治療を導入することはありますが、そんな場合も最終的には幻想からさめてもらってシラフに戻ってもらって、患者さん自身のチカラを信じてもらわないと治療になりません。

つまり黒子のような役割こそ支援者のあるべき姿なわけです。
黒子



誠実な支援者は目立たない

なので、誠実な支援者は目立たないひとが多いです。見た目パッとしなくて地味で声が小さくて背筋が曲がっている素朴なひとはとてもいい仕事をする傾向があります。

逆に、派手で有名な支援者はやたらと「支援者に奉仕する患者さん」をたくさん抱えていて、いつまでたっても治療がすすんでいなかったりすることがあります。

誠実な支援者はどことなく陰があって不幸そうで、ダメな支援者はとても幸せそうだったりと対照的です。


対人援助職のジレンマ

さらに、支援される側からの要望と、経営側からの要望はしばしば競合します。サービスの質をよくするためには経営を圧迫しなくてはいけなかったりして、そのへんの線引きがあいまいだからです。

なので、対人援助職のひとは必ず板ばさみを経験することになります。これを割り切ってやりくりできる器用なひとはともかく、誠実なひとほど苦悩を深めていきます。

おまけに、対人援助職のひとが頑張って成果をあげても、支援される側のひとと経営側に成果をもっていかれてしまいます。

かくして、誠実な対人援助職のひとは精神科クリニックを訪れる確率が上がってしまうわけです。

これはもう存在論的な問題で、対人援助職のひとは本質的に不幸なんじゃないかと。「成長を見守る喜び」とか「笑顔のため」というモチベーションでなんとかふんばっていますが、支援者として誠実なままでいることはなかなか厳しいことなのではないかと。

なので、一部の限られた才能のあるナチュラルボーン支援者以外は、支援者の道をひたすら極めるのではなくて、趣味・家庭・副業・管理職・研究などなど他の活動やアイデンティティをもっておくことが重要です。


研究の論理をもつこと

とくに「研究」というアイデンティティをもつことはオススメです。研究といっても、がっつり大学院に入って研究して論文を執筆するという意味ではありません。

研究という視点をゆるくもつことによって、日々の業務に「一次情報の収集」という意義が生まれます。それを仲間と共有して語り合ったり、よりよいシステムを構築するための大切な糧にしたりすることで、精神衛生がかなり向上します。

さらに、このような視点は、異なるタイプのひと同士がつながるための作法として重要であることが当事者研究から導き出されています。

というわけで、支援者を支援することを通じて、自分自身 も日々研究という視点をもちながら日々の支援を続けていこうと思う今日このごろです。

ASDと定型発達が共感するまでのプロセス


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以前の記事(ASDをもつひと同士は共感しやすいのか?)では、自閉スペクトラム症(ASD)をもつひと同士、定型発達(TD)のひと同士、つまり似たもの同士は共感しやすいということについて書きました。


では、ASDをもつひととTDのひと、違うタイプのもの同士が共感し合うにはどうすればよいのでしょうか?

一般的にはASDのひとへの対応方法として
  • 視覚化しましょう。
  • 見通しを立てましょう。
  • 具体的に説明しましょう。
などなどよく聞くフレーズが念仏のように繰り返し語られたりしていますが、このような対応はASDの理解を深めることはありません。かといって、難しい本を読んで思弁的かつ文学的なややこしい表現を追いかけても疲れるだけだったりします。

というわけで、最近たまたま読んだ保育の本にヒントが書いてあったので紹介します。

目次
1 人間発達の軸としての「共感」…佐伯 胖
2 「共振」から「共感」へ―乳児期における他児とのかかわり…須永美紀
3 「共に」の世界を生みだす共感―自閉傾向のある子どもの育ちを支えたもの…宇田川久美子
4 保育の場における保育者の育ち―保育者の専門性は「共感的知性」によってつくられる…三谷大紀
5 「対話」が支える子ども・保護者・保育者の育ち合い―多様な他者が共に育ち合う多声的な「場」…高嶋景子
保育の本って初めて読んだのですが、どれもおもしろかったのでオススメです。このなかで、宇田川久美子による第三章 “「共に」の世界を生みだす共感―自閉傾向のある子どもの育ちを支えたもの” に、ASDをもつ幼児とTDの著者が共感するまでの長い道のりが丁寧に記載されていて、臨床経験からもうなずける内容が多くてとても勉強になります。


物理的変化そのものを味わい楽しむ

物理的変化を楽しむ

ASDをもつ子どもは、流れ落ちる砂、海辺の波、流れる水、焚き火の炎、床屋の回転灯、洗濯機の動き、電車の窓から流れる風景などなど、あきもせずにずっと眺めていることがあります。

彼らは「物理的変化」そのものをダイレクトに味わい楽しむ感覚をもっています。一方、TDの子どもは「物理的変化」に対してすぐになんらかの意味づけをしたりストーリーをつくったりする傾向があるので、一緒に楽しめずに孤立化する要因になります。これは中心気質っぽい特性だと思うのですが、それはさておき。。。


ここで宇田川は「子どもを見ること」から「視線の行く先を見ること」を重視することを提案します。つまり、ASDをもつ子どもそのものよりも、子どもの視線のその先にスポットライトを当てるべきであるということです。


ASDをもつ子どもを模倣する

ASDをもつ子どもが執着しているモノに、支援者自身が没頭してみること。つまりASDをもつ子どもを模倣してみることをすすめています。ASDをもつ子どもになりきって支援者自身も物理的変化を楽しみます。

この段階では、支援者自身はモノに一体化しているのでほぼ道具みたいな存在になっています。ここでは「クレーン現象」がみられたりします。

そして、《子どもーモノ》の二項関係と《支援者ーモノ》の二項関係がシンクロしていると、だんだんASDをもつ子どもは「共に」という感覚を感じとるようになり、それを求めるようになります。

ASDをもつひとは一般的に孤独を好むように思われがちですが、お祭りムードとか盛り上がっている雰囲気自体は嫌いなわけではありません。むしろ、その場のバイブスとかグルーヴを人一倍楽しんでいたりします。


特別な道具的存在〜相互模倣まで

「共に」物理的変化を楽しむ経験を重ねることでふたりの関係に変化が生じていきます。物理的変化の延長であり道具的存在にすぎなかった支援者に対して、ASDをもつ子ども自身が模倣をしかけるようになります。相互模倣です。

模倣によって相手とシンクロして共に感覚を楽しむことは群れを形成すること、すなわち共感の起源ではないかと考えられます。



その他大勢と同じように道具的存在だった支援者は、特別な道具的存在に格上げされていきます。

この時点で、原始的な情動的共感(EE)は達成されているけれど、相手の意図を理解する認知的共感(CE)はまだ始まっていない段階です。


では、ASDをもつ子どもにおいて、CEはどのように達成されていくのでしょうか?


2段階の共同注意/表層模倣から深層模倣へ

「共同注意」は、同じターゲットを一緒に見ること、指差しによって相手にターゲットを示すこと、など他者と協力するための基礎的能力であると考えられています。ちなみに、チンパンジーやオオカミよりもイヌの方が優れているとされています。

ヒトでは通常生後9ヶ月頃には共同注意ができるようになります。ASDをもつひとはこれがなかなかできないので早期診断のポイントだったりします。そして、生後14ヶ月になると共同注意によって相手の意図を理解できるようになります。つまり共同注意はCEを達成するためにも不可欠な能力であると考えられます。

共同注意には表層模倣によるものと深層模倣によるものの2段階があります
  1. 表層模倣 相手の動作を表面的にマネること
  2. 深層模倣 相手の意図を理解してマネること≒CE
たとえば、TDの子どもたちが粘土細工を料理にみたてて遊んでいるなかで、ASDをもつ子どもは粘土そのものの物理的変化を楽しんでいます。TDの子どもたちは自分たちの作品を「見て」とアピールし、大人の反応を楽しんでいます。ASDをもつ子どもも「見て」というアピールを模倣しますが、大人の反応には全く関心がないようです。とりあえず「見て」という手続きをするという表層模倣の段階です。

ASDをもつ子どもは表層模倣によってなんとか「共に」楽しむことができるようになっていますが、深層模倣がなかなかうまくできません。両者のミゾを埋めるためには何が必要でしょうか?


物理的変化>意味づけ>視線の変化

宇田川の観察によると、流れ落ちる砂の感触を楽しんでいるだけだったASDをもつ子どもが、砂の塊を指して「お山」とアピールするようになった瞬間をとりあげています。宇田川が「本当だ。お山ね。高いわね。」と反応すると満足した表情を浮かべました。

この動作には、自分の作品をアピールするために共同注意をうながす「意図」が組み込まれているので、深層模倣が達成されていると考えられます。

ASDをもつ子どもの視線は、「移動する砂/物理的変化」から「移動した先の砂山/意味づけされた状態」へと変化しました。砂遊びという同一の動作が、視線の変化にともなって「砂の移動」から「山づくり」へと変化しています。
  • 「ある動作」にはその動作を生み出している「目的」があること
  • 「目的」によってその「動作の意味が異なる」こと
  • 「目的」の違いによって「異なる行為」になること
  • 「異なる行為」を生み出す「視線」があること
  • 「視線」の背後には行おうとしている「意図」があること
などを経験します。これらがつながることで他者との意図の共有は可能になるのです。
また、物理的変化に対して言葉をそえる「意味づけ」が行われたことによって、ASDをもつ子どもの世界は他の子どもたちに開かれて、共に楽しむことができる遊びになっていきます。


ASDをもつ子どもと共感するためのプロセス

ASDをもつ子どもがCEに至るまでの長い道のりをざっとまとめてみます。
  1. ASDをもつ子どもになりきる
  2. お気に入りの道具的存在になる
  3. 道具的存在にも意図があることを示す
  4. 共同注意を通じて模倣を深化させる
  5. 物理的変化に意味づけを与える

① ASDをもつ子どもになりきる

まずは、支援者がASDの子どもになりきることから始まります。自らの身体を相手に投げ出して道具みたいな存在になって、大好きな物理的変化を共に楽しみます。

② お気に入りの道具的存在になる

共に楽しむ経験を通して、支援者と身体感覚レベルでの共感(EE)が成立し相互模倣が始まります。この関係をベースとして共感を発展させていきます。発展しなければ支援者は単なる便利な道具で終わってしまいます。熱心な支援者のなかには、道具的な存在のまま2人きりの世界にいつまでも閉じこもり続けることがあったりします。

③ 道具的存在にも意図があることを示す

支援者自身が「意図」をもった存在であること示し、いつでも便利に使える道具ではないことを経験していくために、ときには要求を突っぱねることも必要です。

④ 共同注意を通じて模倣を深化させる

共同注意を模倣することは相手の意図を感じられるようになるための近道です。

⑤ 物理的変化に意味づけを与える

これによって、ASDの子どもの遊びは、他の子どもにも理解できるように開放され、共有することができるようになります。


生身の身体を利用したシュミレーション

TDのひとは、脳内で「意図をもった他者」を想定してシュミレーションを行っていますが、ASDをもつひとはこれがなかなかできません。宇田川は、自らの身体を登場させて道具的に利用させるという手段をとりました。これはなかなかマネできることではありません。

その結果、TDが脳内で行う仮想的なシュミレーションを、現実世界に展開して物理的かつ具体的に再現することができるようにしたわけです。ちょうどソロバンをつかって計算するように。

TEACCHなどでは、発達障害の特性にあわせて環境をコーディネートすることが重要であると言われていますが、支援者自身も環境の一部として物理的構造化に寄与していくという視点を導き出せるのではないかと考えています。

自立はややこしいので、とりあえず自律しておこう


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自立

自立と自律の違い

日本語では読み方が同じ「じりつ」なのでまぎらわしいのですが、自立と自律は全然違います。英語では、自立/自律は、independence/autonomy なので、全く別モノであることがよくわかります。

自立 independence【in - dependence】

【in】は「否定」、【dependence】は「依存」
原義は「依存しないで生きていく」です。
つまり、誰にも援助されず依存せず、独立していることとされています。

自律 autonomy【auto - nomy】

【auto】は「自分」、【nomy】は【nomos】つまり「法」「ルール」
原義は「自分のルールで生きていく」です。
つまり、誰にも影響されずに自分のルールに従って意思決定する能力であるとされています。

なので、自律なくして自立はありません。自律はより基礎的な能力で、自律できるようになって初めて自立が達成されるハズです。

ですが、しばしば自立と自律がごっちゃになっていて、自律もできていないうちから性急に自立が強調されたりすることが多いように思われます。しばしば子どもの頃から「他人に依存せずに自立を目指すべき」と言われたりしますが、これにはいろいろな問題があります。


自立のパラドックス

「自立」の反対は「依存」なのですが、「自立すること=依存すること」だったりします。自立しているひとほど、さまざまなひとたちにうまく依存して生きていたりするからです。

たとえば、大企業の経営者は自立した立派なひとであるとされていますが、多くの社員をはじめ様々な人脈のネットワークやシステムに依存して活動しているので、ひとりだけでやれることはそれほど多くありません。なので、もっとも依存しているひとであるとも言えます。

一方で、誰にも会わずにずっと家にひきこもっているひとは親に依存していて自立できていないダメなひとであるとされていますが、他人はもちろん親すらも心理的には頼っていなかったりするので、もっとも自立しているひとであるとも言えます。

なので、自立するためには、いろんな依存のチャンネルをもっておくことが必要だったりします。

「自立支援医療」という制度があるように、医療や福祉の領域では「自立」が重要とされていますが、単純に自立させようとする援助は、逆に自立できない状態へと追い込むことになっていたりするわけです。


自立と「子ども部屋」

一般的には、自律よりも自立が注目されて依存が問題視されがちです。自立した個人として生きていくことが重要であると強調されることで、自立できなかった個人は激しい批判の対象となってしまいます。

たとえば、戦後日本で民主主義教育が普及したことによって、子どもの自立心を養うために「子ども部屋」が重視されるようになりました。

ですが、1970年代後半から増加した不登校やひきこもりの温床として「子ども部屋」はヒステリックに批判され、一転して子ども部屋を個室化しない住宅プランが増えていくことになります。

不登校やひきこもりという現象は複雑な問題なので原因は特定できないのですが、自立をさまたげる犯人として「子ども部屋」がヤリ玉にあがってしまいました。

ともかく、自立をめぐる問題はパラドックスを含んでいて混乱しやすいので、「自律」の概念に注目するべきだと考えています。


「子ども部屋」で自律を育む

環境心理学者の北浦かほるは、子どもが「自律」を獲得していくプロセスは、「プライバシー意識」を獲得していくプロセスと密接に関係していることを指摘して、「子ども部屋」という物理環境をコントロールする経験を通じて「自律」が育まれていくのではないかと考えました。







とてもおもしろい本だったので、次回紹介してみようと思います。

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