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ポール・トーマス・アンダーソンの中心気質的な映画

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前回エントリー『中心気質は破綻しやすいか』の続きです。

それにしても、安永浩とポール・トーマス・アンダーソンというありえない組合せ。。。

Paul-Thomas-Anderson
■PTAとは

ポール・トーマス・アンダーソン(PTA)は近年最も注目を集めている映画監督のひとりです。
9人同胞中第7子。父はローカルTVで大人気のタレント。
1970年ロサンゼルス生まれ、80年代に青春を謳歌し、90年代に映画監督としてデビュー。
故郷はカリフォルニア州ハリウッド近くのサンフェルナンド・バレー。


■生育歴とキャリア

物心ついた頃から8ミリフィルムに親しみ、10歳ころにビデオカメラを手にとってからは撮影に没頭。勉強には興味が持てなかった。高校生の頃から自主映画の製作を開始。名門ニューヨーク大学の映画学科に入学するもののすぐにドロップアウト。ターミネーターみたいな作品をつくりたいヤツは帰れと言われて帰ったみたいな。

タランティーノらと同じいわゆるVCR世代。映画館や映画学校で学ばず、大量のビデオで映画を吸収して勉強。膨大な映画の知識量を背景として作中にはマニアックなオマージュを連発、PTA本人はそれを公言してはばかりません。
先人のマネはりっぱな創作。なのにマネを嫌うひとが多い。楽しんで映画を撮ろうとしないんだ、バカげてるよ。
『ブギー・ナイツ』PTAによる音声解説
これは中心気質者の感性と言えるでしょう。
感覚それ自身を大切にする価値観であり、社会規範に従うことや、自己評価を高めることに価値を置くのではなく、体験そのものの楽しさや高揚感に価値を置く。 

■PTAの中心気質親和性について

中心気質者の病跡学については、斎藤環が西原理恵子・北野武・石原慎太郎・勝新太郎についてそれぞれ秀逸な論考を残していますので、それを参考にPTAの中心気質親和性を確認していきます。

18歳時に制作した短編映画『The Dirk Diggler Story』は、有名子役の没落ぶりを紹介する情報番組のモキュメンタリーです。
浮き沈みの激しいめちゃくちゃな人生に魅力を感じる。麻薬に溺れて没落していく女優とか。悲しみを感じるとともに倒錯的でもあったがおかしかった。病んだ形でユーモアを見出していた。バレーでは珍しくない、変わり者の巣窟。
『ブギー・ナイツ』PTAによる音声解説
中心気質者の特徴「近景における喜劇、遠景における悲劇(斎藤環)」を、PTAはこよなく愛したと言えます。

その後、テレビ番組、ミュージックビデオなどの製作助手として働き始め、23歳、短編「シガレッツ&コーヒー(1992)」が注目されたことからチャンスを掴み、26歳、初の長編「ハードエイト(1996)」を完成させる。


■フィルモグラフィ
★27歳「ブギー・ナイツ(1997)」
 興行的・批評的に大成功
★29歳「マグノリア(1999)」
 ベルリン国際映画祭金熊賞受賞
★32歳「パンチドランク・ラブ(2002)」
 カンヌ映画祭監督賞受賞
★37歳「ゼア・ウィル・ビー・ブラッド(2007)」
 ベルリン国際映画祭監督賞・アカデミー賞2部門受賞 
★42歳「ザ・マスター(2012)」
 ヴェネチア映画祭監督賞受賞 
★44歳「インヒアレント・ヴァイス(2014)」 
若干27歳で監督したブギー・ナイツが大ヒット。その後も寡作ながら高評価を重ねる。その後、ゼア・ウィル・ビー・ブラッドからキューブリックを思わせる重厚な映画を撮って新境地を切り開き、ザ・マスターの時点で三大映画祭の監督賞を全て受賞という快挙を達成。現代映画の若き巨匠という地位を確立しました。


■極めて個人的な映画

出世作「ブギー・ナイツ」大ヒットの同じ年、父が他界。父の芸名を冠する制作会社「グーラーディ・フィルム」を地元に設立。「ブギー・ナイツ」「マグノリア」「パンチドランク・ラブ」3作品はすべてその近所で撮影され、父の死など身近に起こったことを題材としています。

映画のエンドクレジットは撮影中に亡くなったりした関係者に捧げるものですが、「マグノリア」のエンドクレジットは「faとeaに捧ぐ」として同棲中の恋人と父に捧げています。メイキング映像では、当時同棲していたフィオナアップルとイチャイチャしている光景を大胆にも披露しています。
表裏のないあけすけな印象、その作品の確固としたリアリティ、作品としばしば交錯するかにみえるその生の軌跡
「語り得ないこと」の暴力性−北野武の「顔」


■PTAの演出

演出場面では、派手な身振り手振りで縦横無尽に動きまわるPTAの姿が記録されています。
That Moment - The Making of Magnolia documentary
 
好奇心が旺盛で飽きっぽく、優れた身体能力とイマジネーションを持ち、動物的直感で「現在」を生きる。過剰なまでのサービス精神と万人を魅了する愛嬌を発揮しながら、暗鬱で暴力的な作品を作らずにはいられない。

■PTAと仲間たち 

PTAは仲間と遊んだりふざけたりしている時に偶然生まれたアドリブを脚本に盛り込みます。お気に入りの俳優を何度も起用して、それぞれの持ち味をいかに出すか腐心します。

PTAは役者に対して、ストーリーを動かすための演技ではなく、その時間を生きる人物そのものを表現するための演技を要求します。しばしば俳優の名前がそのまま登場人物の名前になっていたりするほどです。
気に入った役者のために役を用意して、エネルギーが尽きないよう楽しませる。父親のようなまなざしで。それが監督だ。できるだけ多くの役者に活躍してもらいたい。僕はただ楽しい雰囲気を振りまくだけ。
『ブギー・ナイツ』PTAによる音声解説
役者個人の魅力を最大限に引き出すことに成功していて、実際に多くの役者がPTA作品で評価されてスターになり、次の作品で再集結しています。PTA作品には、中心気質者同士の交流が生み出す独特の魅力が満ち溢れています。

安永は中心気質者同士の交流こそが精神療法のかなめだとしています。
精神療法の“中心”を貫いているのは、純度の高い「中心気質的交流」なのだ。これが技術や理論武装とうまくかみあい,相互に高めあうように持って行けた時に,最大限の結果が自然と出てくる。その辺を見通す感性と技術こそが真の“技術”なのだ。
「夏・随想――中心気質幻想」
PTA作品を鑑賞することで、中心気質者ないし我々の中心気質的な側面が活性化され精神療法的な作用をもたらします。そのような表現が優れた映像作品として世の中に広く受け入れられているという事態は興味深いと思います。


■PTA作品の胡散臭さ

いかさま師・セックスインストラクター・ツーショットダイヤル業者・伝道師・山師・カルト教団の教祖などなど、PTA作品にはだいたい毎回、胡散臭いキャラクターが登場し、彼らのカリスマ性には常に秘密と嘘が内包されています。

自分は「ほんもの」ではない、つまり正当性も根拠もないことをうすうす気づいているがゆえに、彼らの虚妄は肥大化し、やがて破綻へと導かれていきます。

無邪気に「ほんもの」を偽装する彼らの虚妄がどんどん肥大化していく光景を、カメラが距離をおいて冷静かつ客観的に記録しているというズレ感がPTA作品の醍醐味と言えるでしょう。

いったい彼らの虚妄はいつ暴かれるのか?破綻への予感が蔓延するなか、破綻へのカウントダウンを見届けたいという欲望によって観客のテンションは維持されます。PTA作品は長丁場なのですが、あまり時間を感じさせないのはこのためです。

彼らの嘘は少しずつ綻び、やがて「ほんもの」性を保てなくなったその瞬間、「中心気質型破綻」がおとずれます。盛大に破綻する光景は、時にロングテイクでカメラにきっちり記録されます。PTAの非凡な演出力はここにおいて極まります。


■PTA作品から導かれる治療論的視点

さて、破綻した者はその後どうなるのか?

いくら惨めになっていても、ほとんどの場合は最終的に救われています。破綻する光景を冷静に記録することは人間を突き放しているようにもみえますが、PTAは時にセンチメンタルと言えるほど登場人物に接近し、あたたかい視線を注いでいます。

PTAはその中心気質親和性によって中心気質的な仲間達と交流して中心気質的な登場人物を演出し、彼らの『内在する欠陥』を承認し擁護しています。それは危機に瀕している中心気質者≒発達障害者に対峙した治療者がとる精神療法的態度に通底するかもしれません。



ADHD的な映画『ザ・マスター』

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唐突ですが映画『ザ・マスター』を紹介します。僕が大好きな映画監督のひとりであるポール・トーマス・アンダーソンの最新作です。っといっても数年前の作品ですが。。。


主人公はおそらくは療育されずに成人したADHDをもったひとで、これでもかというくらいの無法者です。序盤から自らの欲望を制御できずに暴走を続けます。元は海軍の兵士で、軍の中にいたころはナントカなってたんでしょうが、退役後はいたるところでトラブルが絶えず、やがて社会に適応することがままならなくなります。 

そしてある時、たまたまカルト教団の教祖と出会うところから物語は展開します。主人公は教団のメソッドに傾倒し、カルト特有の擬似家族的な雰囲気の中に自分の居場所を見い出していきます。

というわけで、基本的には『それがどうした?』っていうめちゃくちゃどうでもいい個人的な物語にスポット当てちゃってます。ですが!あまりにも瑣末で個人的なエピソードがあまりにも美しく荘厳に撮影されていて、とても印象的なシーンの連続に仕上がっているので、ついつい各シーンがとても重要な意味をはらんでるのではないかと勘ぐってしまうのですが、そこには大した意味なんてなくてただ圧倒的な映像の強度だけが存在します。

加えて、アドリブでいろいろ試していたらたまたまグッとくる映像が撮れたんで使っちゃいました感が満載で、各シーン前後の脈絡がゆるかったりするのも印象的です。


まとめると、いたって個人的なエピソードを圧巻の映像美で無造作に並べた映画なので、終わってみると『これは一体なんなんだ』感がハンパないのです。

過去の監督作品である『マグノリア』などは、複数の物語が並行して展開し、ラストシーンに向かって全てが収束していくという綿密に計算された構造だったのですが、問題作『 ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』以降、明らかに違う次元の映画を撮るようになっています。





この変遷は、監督自身のADHD的な認知特性が主人公への投影のみならず、作品自体にもに反映され始めたことによるものかもしれません。
ADHD的な認知特性とは、本人が『今ここにある報酬』を何よりも優先してしまう結果、実行機能や時間感覚が障害されているように観察されるというものです。

映画における『今ここにある報酬』とは『映像の強度』であって、それが何よりも優先された演出や編集がなされることによって『時間感覚』や映画における『実行機能』すなわち『物語の整合性やメッセージ性』に独特のひずみが生じています。


とはいえ、映画全体に通底するメッセージ性みたいなものは、うっすらと感じとることができます。

障害をもって社会から排除された無法者が、カルト教団に包摂されてメソッドを学び自分の居場所を獲得し、めでたしめでたしで終わる話ではありません。主人公は教団と決別し、ゆきずりの女性にメソッドを試したけど全然効果ねえよ!って、ふたりでそれを笑い飛ばすシーンで物語は終焉していきます。

当然のことながら誰もが題名の『マスター』はカルト教団の教祖を指していると考えるでしょうが、不思議と教祖を『マスター』と呼ぶことは最後までありませんでした。それどころか、教祖は妻にあらゆる欲望を厳格に管理されている憐れな存在であることが次第に明らかになっていきます。

では、『マスター』とは一体何者なのか。

もしかすると、この映画は主人公が自らの欲望を制御することを『マスター』するまでのお話なのかもしれません。主人公のどうしようもない狼藉を執拗に撮影することで、ともすれば人間を突き放しているようにもみえるのですが、最終的には人間の自立と成長を否定していないところがそこはかとなく感動を呼ぶのだと思いました。



奇遇にも!この記事を書いている際中に友人のブログでこの映画が取り上げられていたので紹介します。
アルファホームズBOSSブログ『主従関係、マスターとは』
 

ザ・マスター(字幕版)
ホアキン・フェニックス
2013-11-26


 

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