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ポール・トーマス・アンダーソン監督作品における二重のコスト構造


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前回からの続きです。松本人志とポール・トーマス・アンダーソンの差異である「誇示的精密性」と“発達障害的シグナリング”の組み合わせによる効果についてまとめました。


ポール・トーマス・アンダーソン作品の精密性

さて、映画監督ポール・トーマス・アンダーソンの作品は非常に精巧かつ写実的であると定評があります。映画開始早々から、やたらと「巨匠が撮った映画」感とでも言うべき迫力があるのです。撮影技術もさることながら、制作過程においてリアリティを追求するべく細部にいたるまで徹底的にこだわって造り込まれていることがうかがわれます。


たとえば、初期作品はポール・トーマス・アンダーソン自身が生まれ育った場所、つまり監督自身が細部まで知り尽くした場所で撮影されています。他方、別の時代や場所を舞台とする場合は事前リサーチを徹底し、大量の資料を読み込んで時代考証が行われています。現地住民をエキストラとして起用し、演者のアドリブを積極的に採用し、アナログ・フィルムを用いてデジタル処理を排することで、画面の隅々までリアリティを追求した精巧な映像を制作しています。

たとえば、最新作のファントム・スレッドでは、舞台である1950年代のロンドンにおける高名なオートクチュールの自宅兼工房が精巧に再現されています。映像に没入すると、まるでタイムスリップしたような感覚に包まれてしまいます。


“発達障害的シグナリング”と「誇示的精密性」のカップリング

ポール・トーマス・アンダーソンは、映像制作において過剰な投資を行い、膨大なコストを引き受けることで、発達障害的シグナリングの信頼性を高めることに成功しています。

ポルノスターの転落人生から痴話喧嘩まで、発達障害的シグナリングが満載のバカバカしいシチュエーションを安っぽいキッチュな映像ではなく、丹念に技巧を凝らした精密な映像としてあますところなくディスプレイすること。

そのような大いなる“ギャップ” あるいは“誇示的精密性による発達障害的シグナリングの増強” つまりは“二重のコスト構造”。それこそがポール・トーマス・アンダーソン作品の真骨頂であり、ゆえに比類なき映像作品として完成しているのです。

これまでのまとめ





以上の話をまとめて日本病跡学会で発表してみました。


芸術作品における「誇示的精密性」というシグナル


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前回からの続きです。


映像作家として、松本人志とポール・トーマス・アンダーソンには大きな差が生じてしまったのはなぜなのか、ということをニワシドリの芸術作品と進化心理学の知見を参考にしながら考えてみました。

ニワシドリは、オーストラリアやニューギニアに生息する体長20−40センチの鳥で、とても興味深い習性をもっていることが特徴です。
ニワシドリ
https://artlovenature.co.za/another-artist-from-the-animal-kingdom-bower-bird/

ニワシドリの<芸術>作品

ニワシドリのオスは繁殖期になるとメスを惹きつけて求愛するために、花びらや木の実・葉っぱ・昆虫の殻・ガラスやプラスチックなどなど、カラフルで光沢のあるものをせっせと拾い集めて組み合わせて、非常に手の混んだ構造物「あずまや」を作成します。

ニワシドリの作品
https://artlovenature.co.za/another-artist-from-the-animal-kingdom-bower-bird/

この<作品>を制作してディスプレイするためには膨大な投資がなされていて、彼らの<作品>は人間の眼から見てもきめ細やかで美しく、技巧的であるとさえ感じます。

そのクオリティーは年齢や経験が増すにつれて複雑・細密・豪華になる傾向があり、<作品>の完成度は個体の身体能力や社会的地位を反映しています。そのため、人間の手によって<作品>を豪華にすると優位なオスから襲撃を受けてしまいます。常に仲間から監視されていて、実力がないと<作品>を維持することができないようになっているのです。


また、若い未熟なオスは上位オスの作品を観察して学習するなど、「文化の継承」が行われている形跡があります。つまり、技巧的な芸術には生物学的な基盤があるという例証になっています。



「適応度標示」というシグナリング

ニワシドリに限らず、ほとんどの動物種には個体の性質や特性を他個体が知覚できるように示すなんらかのシグナルを有しています。優良な遺伝子・健康状態・社会的地位を反映する生物学的特徴を広告としてディスプレイすることは「適応度標示」と呼ばれています。

たとえば、クジャクの羽・グッピーの尾びれ・ライオンのたてがみ・ナイチンゲールの歌声、そしてニワシドリの<作品>は、個体の資質を反映するシグナルであり、仲間や配偶者を魅了したり、競合相手を牽制したり、仲間の支援を引き出したりする効果があります。

このような「適応度標示」というシグナルは、拡大解釈することによって人間の文化や消費行動に応用することが可能です。

たとえば、

  • 高級品をみせびらかす
  • 芸術的才能を発揮する
  • 専門的な知識を披露する
  • モラルの高さをアピールする
などです。人間社会においてこれらをディスプレイすることは、
お金持ちで芸術的才能や教養のあるモラリストという「優れた資質」を保有していることを知らしめるシグナルとなるわけです。

ここで問題なのは、これらのシグナルはフェイクが比較的カンタンであることです。

たとえば、
  • 高級品をムリして購入したりレンタルしたりする
  • わざわざ難解な芸術作品を収集して理解のあるフリをする
  • 読めもしない難解な書籍をドデカい本棚に並べる
  • 「親切なことをやりました」とSNSで報告する
このように、「優れた資質」は捏造することができます。
とすると、シグナルとしては信頼性できないものとなってしまうのではないでしょうか。

ところがどっこい、実力に見合わない<作品>をつくってしまったニワシドリが優位なオスから攻撃されてしまうように、シグナルを受けとる側もそうやすやすとだまされるわけではありません。「適応度標示」の捏造は厳しいチェックにさらされています。

たとえば、
  • 金銭的コストをかけただけの豪奢な装飾はかえって下品になる
  • 付け焼き刃の知識や技術を披露しても熟練者からすぐに見抜かれる
  • 首尾一貫していない言動が明らかになったとたんに偽善者と呼ばれる
「適応度標示」をうわべだけで捏造することはできたとしても、バレたときには一挙に信用を損なうという莫大なコストを背負っているため、かなり危ない橋を渡っているといえるでしょう。


誇示的精密性

進化心理学者のジェフリー・ミラーによると、芸術作品においてシグナルが価値を帯びるためには、実質的な価値のある直接的なディスプレイよりも、精神的な価値のある婉曲的なディスプレイであることが望ましいと論じています。つまり、作品の制作過程にかかる時間や注意の集中、リスク選好などの投資が評価の対象となりやすくなっています。



とりわけ「誇示的精密性」、つまり技巧が凝らされて精密にしつらえてあるかどうかが、シグナルの要素として重要であるとされています。この傾向は、20世紀モダニズム・ミニマリズム・技術フェティシズムに関連していて、エンジニアリングや効率性への選好など、自閉スペクトラム症/ASD特性に通底するものであったりします。

たとえばガラス細工の切子は、わざわざ加工しにくいガラスを採用して精密に加工することで、職人の技を見せつけています。

「誇示的精密性」が価値を持つがゆえに、本来の機能そっちのけで精密さを競うようになります。たとえば、今では安価で性能の良い電波時計が流通しているにも関わらず、職人がわざわざ手作業で制作した複雑な機械式時計が高値で取引されていたりします。
patekphilippe

また、最近完結した劇場版エヴァンゲリオン・シリーズでは、ストーリーとはそれほど関係のない機械設備の緻密な描写がこれでもかと繰り返されて圧倒されます。庵野秀明監督はじめ製作者たちが精密性に対して並々ならぬこだわりがあることを感じることができます。


とりわけ、最新作のシン・エヴァンゲリオンでは、各カットの画面構成を絵コンテではなくCGによって行うプリヴィズ Previsualizationという手法を用いたり、生身の役者に演技をさせてモーションキャプチャーを活用したりと、実写よりもリアルで細密なアニメーションを実現するために、通常のアニメ制作よりも莫大な投資をしています。その結果、映像作品の完成度は極めて高く興行的にも大成功をおさめています。

つまり、「誇示的精密性」というシグナリングは芸術作品において非常に重要であることがわかります。

さて、前回の記事で紹介したように、ポール・トーマス・アンダーソンと松本人志の映画作品には、“発達障害的シグナリング”という共通点があるものの、残念ながら松本人志の映画作品には「誇示的精密性」は感じられません。その点において、両者の間には埋められることのない差異が生じています。

というわけで次回は、ポール・トーマス・アンダーソンの映画作品における“発達障害的シグナリング”と「誇示的精密性」の関係についてまとめていきます。


松本人志とポール・トーマス・アンダーソンの“発達障害シグナリング”


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前回の続きです。

今や最も注目を集める精神疾患である「発達障害」の特性は“発達障害的シグナリング”として、映像作品においてディスプレイされることで視聴者に強烈なインパクトを与えます。



そのような“発達障害的シグナリング”が満載な映像作品をつくりあげるふたりの映像作家を取り上げてみます。松本人志とポール・トーマス・アンダーソンです。


松本人志の映像作品における“発達障害的シグナリング”

松本人志は今やゴールデンタイムのバラエティ番組やワイドショーの顔になっていますが、かつては「わけのわからない人物」が登場する不条理なコントやマニアックな番組を制作していました。たとえば、松本人志の映像作品「働くおっさん人形」「働くおっさん劇場」では、発達障害らしき特性をもったおじさんたちが登場します。

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なかでも断トツで印象的なキャラクターである野見隆明さんは、俳優として映画「さや侍」の主役に抜擢されます。

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彼のたたずまいや演技(?)はとても味わい深く、笑いだけでなく哀愁や感動すら喚起させます。発達障害の特性は、良くも悪くも強烈な印象を与えるので、お笑い芸人のキッチュな一発芸から芸術作品まで幅広く応用されているのかもしれません。


ポール・トーマス・アンダーソンの“発達障害的シグナリング”

一方、映画監督ポール・トーマス・アンダーソンの作品にも発達障害的な人物が数多く登場し、その特異な行動様式をまざまざと見せつけられます。



たとえば、映画「ブギー・ナイツ」では、わざわざ劇中劇において、あえてコント風のチープかつマヌケな映像を挿入していたりします。この方向を先鋭化させていけば、キッチュなおバカ映画として終わってしまう可能性があったかもしれないくらい、際どいことをやっています。

松本人志とポール・トーマス・アンダーソンは、まだ発達障害の概念が定着していない1990年代から“発達障害的シグナリング”をいち早く作品に取り入れてきた映像作家として注目しています。両者には作風における共通点があるし、かなり近いところにいたのではないかと思われます。

そのためか、松本人志はポール・トーマス・アンダーソンに対して敵対心を燃やしているようで、監督作品「パンチドランク・ラブ」を酷評しています。
結局、(ポール・トーマス・アンダーソンは)映画監督として基礎ができてないんじゃないかと思うんですね。たとえばピカソは、一見グチャグチャの絵を描いているように見えますけど、本当はちゃんとした絵を描ける力があって、それをあえて崩して、下手に見える絵を描いている。なのに、この監督は、その基礎がわからずに、下手な部分だけを真似してるから、つじつまがあわなくてグチャグチャなんですよ。遊んだ映画をつくりたいのなら、もっとちゃんとした映画を何本か撮ってから、その上で遊びなさい、と言いたい。( ~中略~) この監督の映画は要注意です。ブラックリスト入りですね。こいつの映画は今後見ないほうがいいです。
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もはや近親憎悪としかいいようがありません。これは2005年の記事ですが、その後もふたりはそれぞれ映画制作を続けます。

その結果はご存知の通り、松本人志の映画作品はどれもこれも全く評価されませんでした。一方で、ポール・トーマス・アンダーソンは2007年の映画作品「ゼア・ウィル・ビー・ブラッド」で新境地を切り開き、数々の映画賞を受賞して高く評価され、興行的にも大成功をおさめます。

なにが両者の命運をわけたのでしょうか?なぜ、ポール・トーマス・アンダーソンは、“発達障害的シグナリング”を芸術の域に高めることができたのでしょうか?

次回、「誇示的精密性」という観点から説明してみようと思います。


発達障害という強力な“シグナリング”


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前回からの続きです。


精神疾患という“シグナリング”

経済学のシグナリング理論によると、情報をもっている側が情報をもたない側に向けて、情報を開示することを“シグナリング”といいます。その観点から精神疾患、とりわけ発達障害をながめてみようという話です。

精神疾患をもっていることをディスプレイすることは人々の注目をひきつけるシグナリングになります。たとえば、健常者が活躍する姿をみてもたいして感動しませんが、精神疾患というハンディキャップを背負いながらもそれを克服して活躍するひとの姿はとても感動的で応援したくなってしまいます。これは、シグナリング効果のひとつといえるでしょう。

では、どの精神疾患をディスプレイすることが最も効果的なシグナリングになるでしょうか?

ひと昔前なら間違いなく分裂病(統合失調症)でしょう。1970年代は分裂病中心主義の時代で、分裂病は「人間の本質を示す特権的な狂気」として祀り上げられ、臨床と人文知の共通言語となり、芸術方面にも影響を及ぼしていたようです。

たとえば、斎藤環はデヴィッド・リンチの映画作品について、統合失調症の病理とからめて次のように論じています。
そこで起こることは,疑似フレームの増殖と相互浸透といった事態にほかならない。本来ならメタレベルがありえない象徴界が複数化=メタ化されることで,想像界のレイヤー構造が壊乱されてしまうこと。ありえないはずの「メタ言語」を獲得するとき,われわれの想像からはメタレベルが奪われ,かわりに幻覚的なリアリティを獲得しはじめるのだ。これこそが統合失調症的事態といわずして何と呼ぶべきだろうか。

斎藤環:デヴィッド・リンチ──強度の技法.日本病跡学雑誌(90),p.7-14,2015.
まったくもって理解不能であるものの「なんかすごそう」という感じで、やたらと強力なシグナリングであることだけは理解できます。かつて、分裂病/統合失調症の病理を難解な用語で語るひとが尊敬を集めていた時代があったわけです。



統合失調症から発達障害へ

さて、このようなトレンドは2003年にターニングポイントをむかえます。分裂病は「統合失調症」というキャッチーな病名に変更されたことを皮切りとして、内海の「分裂病の消滅」が出版され、発達障害者支援法が施行されて「発達障害」が障害として認定され、関心を集めるようになりました。



以降、発達障害の関連書籍が市場を席巻し、2018年には発達障害の精神病理シリーズが創刊され、今や発達障害は精神病理学の中心課題となりつつあります。健常者が書いた本よりも発達障害をもつ当事者が書いた本が売れたり、精神科医はこぞって発達障害の本を書くようになったので、めっきり統合失調症の本が話題にのぼることがなくなりました。

Google Trendsによると「統合失調症」と「発達障害」のインターネット検索数は、2010年には完全に逆転し、「発達障害」の検索数が上回るトレンドが続いて両者の差は拡大しています。


発達障害という“シグナリング”

ヴィトゲンシュタインやニコラ・テスラなど歴史的偉人、イーロン・マスクやピーター・ティールなどテック長者、シャーロック・ホームズやグレゴリー・ハウスなどTV・映画の主人公にいたるまで、発達障害の特性をもっている著名人は今や枚挙にいとまがありません。

また、ライアン・ゴズリング、ジム・キャリー、米津玄師、勝間和代など、自らの発達障害を積極的にカミングアウトする著名人が近年増加しています。発達障害の特性をもつことは、一般的には社会適応を困難とするハンディキャップであるからこそ、それを乗り越えて活躍することに大きな価値が生じています。ゆえに、シグナリングの価値を高めるコストとして非常に効果的であることが示されているのです。

また、発達障害の支援事業を展開している企業が東証一部上場を果たしたり、発達障害研究の権威が開業したクリニックで超高額自由診療がなされていたりと、発達障害の市場価値はインフレーションを起こしています。エラい先生に発達障害の診断をしてもらうためだけに33万円を支払うひとがいるのだから驚愕です。発達障害研究の権威は現代の預言者あるいはシャーマンにでもなってしまったのでしょうか。

ともかく、今や最も注目を集める精神疾患である発達障害が、最も効果的なハンディキャップ・コストに他ならず、“発達障害的シグナリング”の価値は高騰しているといえるのです。

次回は、映画作品における中心気質的/発達障害的シグナリングについてまとめていきます。


「アヴェロンの野生児」はどのような環境で療育されたのか


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救世主のように登場したイタール

前回は「アヴェロンの野生児」の物語が始まるまでの経緯をまとめました。
 

南フランスの田舎で保護された「アヴェロンの野生児」と呼ばれた少年は、人間社会に接触するようになってから変化しつつあるその姿を博物学者ボナテールが詳細に記録していました。

当時流行した考え方にもとづいて「教育によって野生児を文明人へと導くことができるかも」と期待され、特別な教育を受けるためにパリへ移送されることになりました。

せっかくなじみはじめた環境を奪ってパリに呼び寄せておきながら、ろうあ教育の第一人者であるシカールと、精神医学の第一人者であるピネルは、少年の療育を早々とあきらめてしまったので、少年は学校内でネグレクト状態になっていました。

そんなグダグダな状況を打開すべく、たまたま近くにいてシカールと知り合いだった若手医師イタールが少年の療育に関わることになりました。

こうしてイタールによる伝説的な療育が始まるのですが、どのような環境設定で行われていたのか調べてみると、とても奇妙な構造になっていて興味深いのでまとめてみました。

というのも、「誰が、どんな治療法を行ったのか」という技術的な側面よりも、「どんな設備のあるところで、どのようなスタッフがいて、どのくらいの頻度と時間をかけて治療を行ったのか」というリソース的な側面のほうが治療効果にとって重要だったりするからです。


疑似家族の形成

1800年12月31日、イタールは「パリ国立ろうあ学校」の医師として着任し、住み込みで少年に関わることになりました。若い医師が住み込みで教育した、となると質素な当直室なんかを想像してしまいますがとんでもない。診察室はもちろんのこと居間・寝室・書斎・応接室・個人用の図書室などなど、改修された校舎の2フロアにまたがる部分を占有するという破格の待遇だったようです。さすが国家プロジェクトです。

イタールは近所の陸軍病院の常勤医でもあったため、午前中は病院に勤務して午後からヴィクトールの授業を行っていました。

少年にヴィクトールという名を授け、少年に関する一切を任されることになったイタールは、事実上の養父になりました。

また、世話役としてゲラン夫人が正式に雇用されて事実上の養母となり、ヴィクトールはゲラン夫妻と食卓を囲むことになり、時にはイタールも参加していたそうです。

このような疑似家族的な環境ができあがり、ふたりの大人から献身的なサポートを受けるようになり、ネグレクト状態にあったヴィクトールはみるみる元気になっていきました。
野性の少年の疑似家族

奇妙な構造

ヴィクトールとイタールが生活している場所は「ろうあ学校」なので、生徒や職員は手話をつかって生活しています。学校内で手話を使えないのはヴィクトールとイタールくらいです。

手話をつかえないイタールはヴィクトールに手話を教えることはなく、あくまで発話できるようになることに強くこだわりました。

そのためかどうかは不明ですが、イタールはヴィクトールと他の生徒を交流させなかったようです。11〜12歳くらいの少年が同世代の子どもたちと交流できなかったことは、その後の発達に大きく影響をおよぼしたことでしょう。

ともかく、手話をつかう文化をもつ社会のなかに、手話をつかえない疑似家族がぽつんと生活することになり、両者がほとんど交わることのない隔離された環境下で、ヴィクトールはひたすら社会化を促すための特別な授業を受けることになりました。

このような奇妙な環境設定は実社会ではありえないので、まさに隔離実験のための構造であると言えるでしょう。


映画「野性の少年」には表現されていない構造

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フランソワ・トリュフォー 
ジャン=ピエール・カルゴル



イタールによるヴィクトールの療育は、フランソワ・トリュフォー監督によって1969年に映画化されています。なかなかリアリティのある演出で当時の雰囲気を感じることができますが、このような奇妙な環境設定であることはあまり感じられません。

映画はヴィクトールの輝かしい未来を想像させるラストシーンで終わっているのですが、現実はそうではありませんでした。

イタールは、思い通りに進歩しないヴィクトールに対して苛立ちをつのらせます。
かわいそうに。私の苦労も水の泡となってしまい、お前の努力も実を結ばなかったのだから。お前の森に戻り、また原始生活を味わいなさい。それとも、新しい欲求のために社会から離れられないというのなら、社会の無用者という不幸を贖うがいい。そして、ピセトール(精神科病院)に行って、悲惨と苦痛の中で死ぬがよい。
新訳アヴェロンの野生児/内務大臣への報告書(第2報告)より
このように脅したり、なだめすかしたり、泣いたり笑ったりいろいろとがんばるわけですが、療育開始から約5年間が経過しても、ヴィクトールはほとんど言葉を使えるようにはなりませんでした。

1806年、ついにイタールは絶望して療育を中断してしまいます。次回は、イタールの療育はなぜ失敗したのか、その要因についてまとめてみようと思います。


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