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中心気質は破綻しやすいか

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映画監督ポール・トーマス・アンダーソンと中心気質の関連について、病跡学会というかなりマニアックな学会で発表したのでブログにまとめておきます。


■中心気質とは

気質(きしつ temperament)とは、先天的にもっている刺激などに反応する行動の傾向です。これに対して「性格」は、先天的な「気質」に経験や環境の影響によって後天的に形成される行動の傾向です。 

その昔、クレッチマーという精神科医が精神疾患に関連した3つの気質分類(分裂気質・循環気質・粘着気質)を提唱しました。その後、安永浩という精神科医が粘着気質を「中心気質」という概念へ発展的に変更することを提案しました。粘着気質は他の気質に比べてネガティブなものだったのですが、中心気質はかなり拡大されてポジティブなものになっています。

気質はエビデンス的には意味がないということで、気質について考えるのは流行りませんが、生来の気質を吟味して今後の行動傾向を予測することは精神科臨床上、大切だったりするので知っておいて損はないということで3つの気質をざっと解説します。

◎分裂気質
芥川龍之介
敏感で鈍感、突飛で頑固。俗っぽいことよりも抽象的な理論や芸術を好み、孤独を愛し、自分だけの世界をつくりあげるひとです。変人っぽい学者や芸術家のイメージでしょう。 

◎循環気質
田中角栄
円滑で柔軟、温厚で社交的。現実的なことを好み、精力的で陽気なムードメーカーで、人間関係をうまく調整して組織をつくりあげるひとです。政治家や実業家のイメージでしょう。

◎中心気質
長嶋茂雄
粘着気質は質実剛健な軍人のイメージですが、今回とりあげた中心気質とは、ふつうにのびのびと育った子どものイメージです。以下は安永による説明です。

天真爛漫で、うれしいこと、悲しいことが単純にはっきりしていて、周囲の具体的事物に対して烈しい好奇心を抱き、熱中もすればすぐ飽きる。動きのために動きを楽しみ、疲れれば眠る。明日のことは思い煩わず、昨日のことも眼中にない。

よい意味でもわるい意味でも自然の動物に近い。

<中心気質>という概念について 安永浩
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子どもはみな中心気質なのですが、そのまま成人する場合と循環気質や分裂気質に変化していく場合があります。その場合でも中心気質的な側面をいくらか残していたりします。

安永浩セレクション
安永浩
ライフメディコム
2014-10


 

■安永の預言

安永浩は1980年『境界例と社会病理』という論考において、興味深い指摘をしています。
現代文明は中心気質においてもっとも直接的な圧迫を負荷し、これを破綻に追いこむような形になる
 
また、臨床的直観によって境界例(の一部)は『中心気質型破綻』を思わせる 
安永 浩
金剛出版
1987-07

境界性人格障害はもはや注目されなくなりましたが、中心気質者が活躍する場がなくなって生きにくいご時世になる、すなわち精神科の門を叩くことが増えているという預言は、臨床経験からすると確かに実現していると思ったので大変興味深いと思いました。

当クリニックは児童思春期外来に力を入れていて比較的若い患者さんが多いためかもしれませんが、成人の患者さんの中にも中心気質的な傾向のあるひとが多いと感じています。

中心気質について論じるひとはとても少ないのですが、先輩の精神科医が先日出版した著作には中心気質についての論考が載っています。

 
安永の預言から30年後の2011年、杉林は「<中心>をめぐる考察」において、中心気質と東浩紀の動物化するポストモダンとの関連を指摘した上で、近年とみに増加の一途をたどっている「いわゆる発達障害」の多くが中心気質性を色濃く備えている、と指摘しています。 


■中心気質と発達障害の関連

先ほどの
天真爛漫で、うれしいこと、悲しいことが単純にはっきりしていて、周囲の具体的事物に対して烈しい好奇心を抱き、熱中もすればすぐ飽きる。動きのために動きを楽しみ、疲れれば眠る。明日のことは思い煩わず、昨日のことも眼中にない。

よい意味でもわるい意味でも自然の動物に近い。
という記述はADHD(注意欠陥多動性障害)的
(危険に対して)発作様のパニック、もしくは爆発的な怒り、という形をとりやすいだろう。

ほとんど人を人とも思わないようなところがあり得る。(中略)要するに人でも物でも同じなのである。
という記述はASD(自閉症スペクトラム障害)的
成長がいびつである場合、あるいは挫折の結果をこうむる場合、等々において、かなり特徴ある「中心気質周辺」的な人格をつくり得る
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という記述は、発達障害における二次障害を思わせます。

このように、中心気質の特性は“発達障害”の特性(ADHDやASD)に類似します。児童精神科領域では「ADHD気質」なるものが言われていますが、それはそのまま中心気質だったりします。そもそも発達障害の症状は基本的には「発達の停滞」によるものであり、中心気質の定義にも共通します。

境界例ではなく、1980年当時はあまり存在が知られていなかったいわゆる“発達障害”の領域にこそ中心気質型破綻が生じているのではないでしょうか。

いまだ臨床的有用性が十分検討されていない中心気質という概念を再検討することは、発達障害の理解を深めることに寄与するかもしれないと考えました。


■「ほんもの」を選びとる能力

安永は先の論考で個人病理と社会病理の関連について、もうひとつ興味深い指摘をしています。
現代において要請されるのは、均一化(あるいは相対化)された、一様におなじになってしまった価値系から各個人がそのそのつど「ほんもの」を選びとる能力である。
「ほんもの」を選びとる能力とはなにか?
 
安永によると、いったん「ほんもの」を選びとった(気になった)としても、絶えず価値観が流動化している現代においては「ほんもの」性を損なわない範囲内で柔軟に変身する能力が要請されるし、また一方で、いまだ「ほんもの」を選びとっていないひとにとっては「ほんものでないことの強制」つまり「本来必然性のない強制」がゆるく課せられることになると。例えば「みんながやることだから○○しろ!」という形で。
この葛藤自体には切実さがなく、隠微に人間本来の健康性をうらぎり、しかも自覚さえし難い。一様単調な「妥協の平和」を形成する。
分裂気質者ならば平和を歓迎して「ほんもの」でなくてもいいと割り切るでしょうし、循環気質者であれば相手にあわせて柔軟な変わり身が可能でしょう。

この状況において深刻な破綻を呈するのはやはり中心気質者なのです。


■中心気質型破綻

中心気質者の特性として、
弱い微細な刺激では不満足

その代わり至適量に達した刺激への直観的鋭敏、感覚的陶酔はもっとも高度にして純粋

よくも悪くも明暗・強弱のはっきりした体験様式をとる 
したがって、一様単調な『妥協の平和』は、直接に耐えがたい圧力となって中心気質者を破綻に追いこむことになります。破綻の典型的様式は、発作的爆発や意識そのものの消し去りであり、嗜癖問題の重大化や意識変容嗜好にもつながったりします。

僕なりの解釈では、本当はみんな「ほんもの」じゃないと知っている=胡散臭い状況、つまり正当性のないルールに従って、内に募る不満に耐え、周囲との軋轢を来さないよう自重することが求めらる状況に長時間さらされ続けた結果、中心気質者あるいは我々の中心気質的側面は、ソレを我慢できずに「ほんもの」の空気をぶち壊したくなってしまうわけです。

これはまさに、発達障害者の不適応状況にも多く見受けられる光景ではないでしょうか。

そのような中心気質型破綻が顕著に表現されている映画といえば、ポール・トーマス・アンダーソン(PTA)の作品だと思ったわけです。。。つづく

ASD vs ADHD / カナー vs アスペルガー

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スペクトラム

先日、十一元三先生の講演を聴きました。神田橋條治先生のお話とは対照的に単純明快でとてもわかりやすいプレゼンだったので少しご紹介。

ともすればゴチャゴチャしがちな発達障害を、ASD vs ADHD/カナー症候群 vs アスペルガー症候群の二分法で整理していきます。

略語
ASD 自閉症スペクトラム障害
ADHD 注意欠陥多動性障害  


◆ ASD vs ADHD
ASDとADHDはそれぞれお互いをお互いと見間違う
例えば、
  • 社会性の障害を『不注意』と誤解したり
  • 衝動性を『社会性の未熟』と誤解したり
薬剤選択や効果判定に影響するので見分ける努力をするべき
鑑別すべきポイント『馴れ馴れしさ』について
  • ADHD ひと懐っこさ・あどけなさ
  • ASD 奇異・おせっかい=社会的関係のわからなさ
→対人相互性に注目した聴き取りが重要
積極的なASDのひと特有のぐちゃぐちゃネチャネチャした対人距離感。その昔は境界例として記述されたりもしたんだろうと想像します。 
ASDの重症例はADHDを合併しやすい


◆ カナー vs アスペルガー
『人を避ける・孤立』vs『他者への活発な接近』
『発語の遅れ・緘黙』vs『雄弁・詩的・衒学的』
いずれも『自閉=対人相互反応・社会性の障害』ということで『自閉症スペクトラム』にまとめられる昨今ですが、もともと自閉症は(古典的かつ典型的な)カナー型と(非典型的な)アスペルガー型に分けられていたこともあるわけです。

で、それぞれ症候論的に特徴あるのでひとくくりにしないで別個の概念として考えた方が良いという立場です。これはつまり『自閉症スペクトラムをスプリットして考えろ』ということ。

確かに、現在の状態を記述して理解を深めるために『疾患概念』は活用されるべきだと思います。この疾患概念vsスペクトラムはこの前の固有名vs確定記述の話に通ずるので、またの機会に考えようと思ってます。


◆ASDの中核的特徴 
診断基準はDSM-Ⅴからウィングの3つ組から2つ組へ変更。カナーへの回帰。
  • A基準 対人相互的反応の障害
  • B基準 一定不変であることへのこだわり
まだ歴史が浅い疾患なのに、研究によって脳器質的基盤が収束しつつあるのは珍しいこと。
統合失調症の脳器質的基盤の方が散らかってるらしいです。

共同注意は対人相互的反応の原基でありとても重要
  • 『子供の頃の写真がカメラ目線かどうか』が参考になる
  • ASDはひとの視線に影響されにくい
  • ADHDはひとの視線に対して(定型発達のひとと同等かそれ以上に)影響される
ASDとADHDの鑑別点でもある。

ASDの症状は認知だけでなく身体を巻き込む
  • 不器用さと器用さの混在
  • 自律神経系の不安定 頻脈・湿度・気圧に弱い

◆成人期ADHDの臨床
ADHDのひとはしばしばパイオニア的存在だったりする。
薬物療法によってその特性が薄れることもある。 
ADHDの特性が環境にうまくカップリングできればすごいひとになったりする。病理的な部分をパートナーや周囲がうまくカバーしたり、どこかにはけ口があったりするとよいだろう。

ただし実際問題として、パイオニア的存在って同じ集団内に複数いたら収拾つかなくなるので、当たり障りなく環境に適応できるように脳を薬物で最適化してしまう方がよかったりして。


◆質疑応答
精神症状の合併について
  • ASDは被害関係念慮から幻覚などの精神病状態を呈することがある。幻視も珍しくない。
  • ADHDは健常者とほぼ同じという印象。
ADHDには双極性障害が多のかなと思っていましたがそうでもないみたいです。

発達障害と他の精神症状が渾然一体としているケースについて
発達を軸にアセスメントして明確に説明することによって問題が整理されることがある。
渾然一体としたものを理解するのは難しいので、もともとあった発達障害を基盤として、二次的に精神症状が加わったものとして理解する方がイイ。
 
ASDのひとの親がASDだったりする問題について
  • ASDのひとの親もASDであることはけっこうある。その場合、親のアセスメントを綿密に行う。
  • 家族機能が不十分な場合は支援のリソースを最大限活用する。
  • 逆に、親がASDだからこそ耐えられる状況もある。
実際の臨床で問題になるのはほとんどコレだったりします。


それにしても児童精神科医って、ネオテニーというか可愛らしい顔のひとが多いなあと思いました。そういう人が児童精神科医になるのか、やってるうちにそうなっていくのか、つくづく不思議だと思いました。


ADHD的な映画『ザ・マスター』

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唐突ですが映画『ザ・マスター』を紹介します。僕が大好きな映画監督のひとりであるポール・トーマス・アンダーソンの最新作です。っといっても数年前の作品ですが。。。


主人公はおそらくは療育されずに成人したADHDをもったひとで、これでもかというくらいの無法者です。序盤から自らの欲望を制御できずに暴走を続けます。元は海軍の兵士で、軍の中にいたころはナントカなってたんでしょうが、退役後はいたるところでトラブルが絶えず、やがて社会に適応することがままならなくなります。 

そしてある時、たまたまカルト教団の教祖と出会うところから物語は展開します。主人公は教団のメソッドに傾倒し、カルト特有の擬似家族的な雰囲気の中に自分の居場所を見い出していきます。

というわけで、基本的には『それがどうした?』っていうめちゃくちゃどうでもいい個人的な物語にスポット当てちゃってます。ですが!あまりにも瑣末で個人的なエピソードがあまりにも美しく荘厳に撮影されていて、とても印象的なシーンの連続に仕上がっているので、ついつい各シーンがとても重要な意味をはらんでるのではないかと勘ぐってしまうのですが、そこには大した意味なんてなくてただ圧倒的な映像の強度だけが存在します。

加えて、アドリブでいろいろ試していたらたまたまグッとくる映像が撮れたんで使っちゃいました感が満載で、各シーン前後の脈絡がゆるかったりするのも印象的です。


まとめると、いたって個人的なエピソードを圧巻の映像美で無造作に並べた映画なので、終わってみると『これは一体なんなんだ』感がハンパないのです。

過去の監督作品である『マグノリア』などは、複数の物語が並行して展開し、ラストシーンに向かって全てが収束していくという綿密に計算された構造だったのですが、問題作『 ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』以降、明らかに違う次元の映画を撮るようになっています。





この変遷は、監督自身のADHD的な認知特性が主人公への投影のみならず、作品自体にもに反映され始めたことによるものかもしれません。
ADHD的な認知特性とは、本人が『今ここにある報酬』を何よりも優先してしまう結果、実行機能や時間感覚が障害されているように観察されるというものです。

映画における『今ここにある報酬』とは『映像の強度』であって、それが何よりも優先された演出や編集がなされることによって『時間感覚』や映画における『実行機能』すなわち『物語の整合性やメッセージ性』に独特のひずみが生じています。


とはいえ、映画全体に通底するメッセージ性みたいなものは、うっすらと感じとることができます。

障害をもって社会から排除された無法者が、カルト教団に包摂されてメソッドを学び自分の居場所を獲得し、めでたしめでたしで終わる話ではありません。主人公は教団と決別し、ゆきずりの女性にメソッドを試したけど全然効果ねえよ!って、ふたりでそれを笑い飛ばすシーンで物語は終焉していきます。

当然のことながら誰もが題名の『マスター』はカルト教団の教祖を指していると考えるでしょうが、不思議と教祖を『マスター』と呼ぶことは最後までありませんでした。それどころか、教祖は妻にあらゆる欲望を厳格に管理されている憐れな存在であることが次第に明らかになっていきます。

では、『マスター』とは一体何者なのか。

もしかすると、この映画は主人公が自らの欲望を制御することを『マスター』するまでのお話なのかもしれません。主人公のどうしようもない狼藉を執拗に撮影することで、ともすれば人間を突き放しているようにもみえるのですが、最終的には人間の自立と成長を否定していないところがそこはかとなく感動を呼ぶのだと思いました。



奇遇にも!この記事を書いている際中に友人のブログでこの映画が取り上げられていたので紹介します。
アルファホームズBOSSブログ『主従関係、マスターとは』
 

ザ・マスター(字幕版)
ホアキン・フェニックス
2013-11-26


 

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